パルクールは誰しもがやっていること –パルクールの可能性–【後編】

自分を認め、他者の価値観を認める社会へ

−日本にパルクールが普及して、日常にパルクールが入ってくるようになるとどう変わるのでしょうか。
健康的な社会になるんじゃないですかね。イメージする限りでは、何かを発信することが自分でできるようになって、自立型の人間になりやすくなる。自分がその仕事でどうしたいかとか、何になりたいかというのが決まっていないと、ただ仕事するだけになっちゃうと思うんですよね。じゃあ自分ならどうするか、自発的な姿勢ができてくると、新しいものを生み出しやすい環境になっていくのかなと。

そして、人は人、自分は自分と考えるようになって、他者の価値観を認めやすい社会になるんじゃないかと思います。人間同士なので、同一規格と思うからこそ微々たる差に嫌悪感を感じることがあるけど、他者と自分は全く別物と捉えられたらそういうことも関係なくなると思うんです。

−パルクールが共通言語になると、お年寄りや子どもが一体となって地域のコミュニティになる感じがします。
パルクールは、同じ場所を使っていてもその使い方が違うからそこに面白さを見出せる。そこにコミュニティ性というものも出てくるんですよね。シェアスポーツと僕は言ったりもするんですけど、同じ概念・同じ場所をシェアしつつ、別のやり方・別の視点をシェアすることができる。そういう珍しい運動なんじゃないかなと僕は思っていて。

鉄棒一本があるところに、昔鉄棒できたなと言う大人もいれば、僕できるよと言う子どももいる。腰が痛いから前回りはできないけどと、全然別の使い方をしているご年配の方もいるみたいな。一つの場所だけど、色々なものをシェアできる、そしてそれが会話につながったりもする。

−お互いを認め合う行為にもつながりますね。
コミュニティを生み出すきっかけというか、その要素になるんじゃないかなと。そういったものがより多角的な動きになったときに個性の違いもまた見えやすくなるんじゃないかなと思います。