「生き残る力」にこだわりを持つ


今回は、ネクストリンク株式会社 代表取締役社長の大和田渉さんに、学生時代~起業し、現在に至るまでのお話を伺いました。

 

勝ち目がなければ辞める、諦め続きの人生

私の人生は諦めの連続でした。基本的には同じことをしているのが嫌で、自分に合わないと感じたらすぐに見切りをつける。勝ち目のないことをやるのが生来好きではありません。中学生の頃は、3回部活を変えました。スラムダンクが流行っていた頃はバスケ部に興味を持ち入部したのですが、強豪校でレギュラーになれず、退部しました。その後、ある程度泳げるという理由で水泳部に入ったものの退部。三年生の時にはJリーグの流行を受け、新設されたサッカー部ならレギュラーになれると思い入部したものの、経験者の選手には到底及ばず。

 

高校ではレスリング部に入ったのですが、レスリングの強豪校でした。今では考えられませんが、顔面を蹴られて鼻が折れるくらい練習がきつい部活でした。レスリングで推薦入学した選手もいて、その選手と高校総体で階級が同じだったため試合が組まれた際には手も足も出せずに負けてしまった。それがとても悔しくて、ずっとトイレで泣いていた記憶があります。
この悔しさを契機に、上級生に交じって毎日朝練に参加するようになりました。次第に上級生と同じレベルの練習ができるようになり、推薦入学の生徒にも勝てるようにまでなりました。
レスリング人口が県では少なかったこともあり、地方大会に進むまでは順調でしたが、地方大会では絶望的に勝てなかった。ビックリするくらいの実力差を感じました。自分の中では厳しい練習を毎日続けていたつもりでしたが、子どもの頃からレスリングをやっている生徒や上級生には勝てない。キャリア差が出ることを悟り、レスリングへの熱が薄まってしまい退部しました。

 

その後は帰宅部になり、何となく生きる毎日を送っていましたが、同級生が携帯ショップで働き始めたことで、自分もそろそろ働かなければと思い始めました。
求人誌を開いて片っ端から「18歳以上」を雇用条件としている広告に〇を付けていきました。こういう細やかな仕事の仕方は今も変わっていません(笑)。その中で、給料が一番高く、広告が大きかった情報通信関連の一部上場企業に応募して、入社しました。

 

ストレス耐性はあっても努力が苦手

入社して早々、社会人としての「洗礼」を受けました。新人研修の一環で山登りや発声練習など体育会系の訓練が始まり、厳しさに耐え切れず半分近くの同期が辞めていきました。私はといえば、ストレス耐性はあったようで「こんなものなのか」くらいに受け止めて切り抜けました。
新人研修が終わるとコピー機の営業部に配属されたのですが、これが驚くほど売れず苦戦。当時の社員バッジは「金」「中金」「銀」「銅」「青銅(通称カビバッジ)」の5段階でレーティングされ、高い評価をもらえる人は数か月で昇格していきます。しかしそこに到達するまでメンタルが持たない人がほとんどで、そこでも90%以上の社員が辞め、その中で私は生き残った社員になりました。努力はできないけどストレス耐性はあるんです(笑)。

 

その頃、直属の上司がインターネット事業部に異動となり、楽しそうだと思いついていきました。ところが会社の経営が傾いていたようで、2か月後には事業部が撤退になりました。給料をもらいながら仕事がない日々を過ごしているうち、新規事業の立ち上げを担う部署へ異動を命じられました。
新規事業立ち上げというと聞こえはいいですが、実際はタコ部屋のような劣悪な環境で、当時はまだ珍しかったインターネット広告の営業を始めました。
なかなか契約が取れずにもがきながらも、広告主になりうる潜在顧客を徹底的に調べ上げ、自分たちで獲得できるニッチな業界を発見しました。その業界の特性上、同業他社の営業を受けていなかったため大当たり。面白いくらい契約が取れ、様々な事業部がある中で十億を超える利益を出せる事業部になりました。

 

起業後バブル到来、月次利益●千万

業界の特性や顧客・取引先を掴んだ私は会社に頼らずとも自分でできるだろうと安易に思い、2004年に会社を辞めました。起業する人が多い会社だったので、私にとって起業は特別なことではなかったですね。
取引先から事業譲渡してもらい、資金も借りながら広告メディア事業を手掛けるようになりました。既存事業だったので、少しやったらすぐ儲かるようになり、調子のよいときは1ヶ月で利益数千万という数字を叩き出しました。一人会社にしては大きな数字ですよね。こうしてバブルが訪れたわけですが、週7日飲み明かし、すぐにお金を使い果たしてしまいました。
バブルもあっさり終わり、原点に返って広告代理店をやろうということで粛々とメディア事業維持させながら広告代理店業を2006年からスタートさせました。人も雇い始め、2年目で売上6億に到達。

 

その頃の私は、18時出社の19時退社。社員からすると、やっと社長が出社してきたと思いきやすぐに消えているわけです(笑)。
経営に関しては私の交際費に至るまで、全ての数字を社員に開示していましたから、それが仇となり事件が起こります。「自分はこんなに働いているのに、社長はこれだけ給料をもらって、飲み代も使っているのはけしからん」となったわけです。2008年2月には営業の戦力だった社員が一斉に辞めていきました。顧客も当然営業担当者に紐づいているわけですから取引先はゼロの状態。残ったのは経理などのバックオフィスの社員のみでした。営業経験が全くない社員たちに「明日から営業だ」と号令をかけ、全員で営業。一斉に退職した3月の売上は200万円程度まで落ち込みキャッシュフローも大赤字。その後、半年程度かけて業績をある程度まで回復させました。行き当たりばったりの経営でしたが、当時は生き残るために必死でした。

 

2008年から2009年は生き延びるのに必死で、色々な事業を試してみては失敗する繰り返しでした。その後、2010年頃から現在の事業に集中し、現在に至るまでの10年間は、一言でいうと「地味」で「地道」な期間でした。
事業の特性上、急にスケールするものではなかったので淡々粛々と緩やかな成長を目指していました。行き当たりばったりの経営から、万が一事業が悪い状況に進んでも大丈夫なように、中長期を見越した資金繰りを行うようになり、経営も安定しました。

 

「生き残る力」を身につけるべく、社員にコーチを付ける

失敗から学んだことは、まずは自分自身を律することは当然ながら、一人で会社を運営しているわけではないということです。会社を存続させるための土台は人です。時代は常に変わりますから、社員も変化に耐えうるスキルを身に着けて、個人が強いチームを作るべくコーチングを導入しました。私一人でできることは限られていますので、社員一人ひとりが戦力となり、生き残るための策を講じられるようにしたかったのです。

 

コーチングを受け、自分の考えを言語化することで、本当は頭の中にあるけれど見えていなかったもの、気づいていなかったものが出てくることがあります。私自身にもコーチが付いていますが、話しているうちに「(生き残るために)何かやらなくては」と考えている時間自体が無駄だと気づきました。考えている間に事業が上手くいかなくなったらどうするんだと。そこで、資源投入先を追加して翌月から新規事業を始めることにしました。現在の収益基盤であるインターネットとは全く関連のない事業ですが、「何をするか」に拘りはないんです。生き残ることが重要で、サバイバル力の高い会社であることに拘り続けたいと思っています。会社として利益を上げて、生き残った結果として私も社員も金銭的な余裕があったうえで、物心両面で豊かな生活を送れるような会社にしていきたいです。

 

 

 

大和田 渉
ネクストリンク株式会社 代表取締役社長